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仙台高等裁判所秋田支部 昭和53年(う)25号 判決 1980年1月29日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人金野和子、同塩沢忠和連名の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これをここに引用する。

控訴趣意一(事実誤認の主張)について。

一所論は要するに、被告人の本件殺人の所為は、紛争を避けるため実弟の家に身を隠していた被告人に対し、被害者鎌田由五郎が深夜子分多数を引き連れて殴り込みをかけ、拳銃を向けて「射つぞ」とか「殺してしまえ」と叫んだので、被告人は自己の生命を守るため鎌田を短刀で刺したものであり、その所為は正当防衛行為か、少なくとも過剰防衛行為に当るといわなければならない。しかるに原判決は本件は暴力団内部における喧嘩闘争の一場面であつて、被告人も鎌田らの殴り込みを一応予想してこれを受けて立つ手筈を整えていたし、北側八畳の間に逃げ込んだときは鎌田の視野からはずれ佐藤昭夫のように逃げ出すこともできたのに、被告人は兄貴分たる被告人に殴り込みをかけた鎌田に激昂し、被告人の存在に気づかず無警戒の状態で廊下に立つていた鎌田に対し、その右胸を障子越しに突き刺したのであつて、その行為は侵害が一時中断した時期に鎌田に対する恨みを晴らすため、攻撃的意思のもとに行なつたと認めるのが相当であり、急迫不正の侵害に対し自己の生命等を防衛するためやむを得ずなした行為とはいえない、と判示し、原審弁護人の正当防衛及び過剰防衛の主張を排斥したのであつて、その事実誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

二よつて原審取調べの各証拠に当審における事実取調べの結果を合せ検討すると、

(一)  被告人は昭和三三年に能代商業高校を中退し、同三五年ころから組織暴力団全日本源清田連合相原三代目銭谷組(組長銭谷淳一)の構成員となり、同四一年ころ組長の意向により、将来銭谷淳一の跡を継いで相原四代目の組長となるべきいわゆる跡目実子分に指名されていたものであり、鎌田由五郎は被告人に遅れて銭谷組の構成員となり、同組内の被告人に次ぐ実子分として、昭和五〇年一月銭谷淳一から分家を許され、鎌田組の組長となつたものであるが、被告人は昭和三七年一二月から同四九年一一月まで暴力事犯で七回懲役刑に処せられ、その間殆んど服役していたため、跡目実子分として銭谷組内の地位は高かつたものの、直接の配下も少なく勢力は弱かつたのに対し、鎌田由五郎は鎌田組を組織して多数の構成員を配下とし、これらに金融業を営ませるなどして資力を蓄え、銭谷系各組の中で最も強大な勢力を保持し、また銭谷組の交際費などをその資力でまかなつて、同組の組長や幹部達も鎌田のわがままを制御できない状況に至つたところ、鎌田は勢力の増大するにしたがい源清田連合内における地位の低さに不満を抱き、被告人を排除して相原四代目の跡目を継ぎたいと考えるようになり、昭和四九年一一月被告人が出所してから、その失脚を画策して銭谷組長にざん言を繰り返し、そのため被告人と鎌田は跡目相続をめぐり次第に反目するようになつたこと。

(二)  昭和五一年二月末ころ開催された源清田連合の宴席で被告人が他の組長と些細ないさかいを起こしたところ、鎌田がこれを理由に被告人を処分するよう銭谷組長に訴えて、同年三月二日被告人は謹慎処分に付されたが、その処分程度では目的を達し得ない鎌田は、被告人が謹慎中も街で飲み歩いているなどとして跡目の地位を剥奪するよう同組長に強く要求し、同月五日同組長や幹部等から、被告人に飲酒の事実はなく、これ以上の処分はできない、鎌田も組織の統制にしたがうようにと説得されるや、我意が通らないことに不満を爆発させ「親父が田中に対し何んのけじめもつけないんであれば、俺が俺のやり方でつける。もう親でもない、兄貴でもない。銭谷を脱退して俺のやり方でやる。」などと口走り、憤然として席を蹴り、能代市景林町にある自己の事務所に帰つて、その後先輩幹部らがなだめるのもきかず、同日夕刻から子分らに招集をかけ、多数の配下を事務所に集めるに至つたこと。

(三)  このような情勢から、銭谷淳一は鎌田が被告人方に同夜殴り込みを掛けるかも知れないと思い、身内の紛争を未然に防ぐためには被告人に一時身を隠させるしかないと考え、同日午後五時すぎころ幹部の小林健一を能代市中川原の当時の被告人方に赴かせ、謹慎中で緊迫した鎌田らの動静を全く知らないでいた被告人とそこに居合せた被告人の舎弟分の佐藤昭夫を、小林が一刻の猶予もできないと着のみ着のままで連れ出し、タクシーに乗せたうえ、鎌田の同日の行動を説明し、鎌田が襲つてくるから同月一一日に言い渡しのある被告人の裁判のときまで身を隠し紛争を起さないように、これは親父の命令であると告げ、これを聞いた被告人は、身の危険を避けるためそのまま能代市内の従弟宅に赴き、同所に舎弟分の高橋昇を呼び寄せてから、山本町外岡字志戸橋境六七番地の二に居住する実弟の大工田中富直に電話して迎えに来て貰い、明朝早く引き上げるからと話して同夜は富直方に身を隠すこととなり、その後妻を通じて連絡した配下の成田茂、腰山征司、貝塚喜代春も富直方に集まり、腰山の指示で貝塚が拳銃を所持している被告人の舎弟分西村国光を迎えに行つたが、被告人らはそのまま就寝したこと。

(四)  一方鎌田由五郎は同日夕刻から事務所に配下を集め、被告人の居宅やその立ち回り先に子分を行かせて、執拗に被告人の行くえを探していたが、西村国光のところに赴いた子分らが、鎌田側についた西村とともに、同人を迎えに来た貝塚を事務所に連行したことから、貝塚に暴力を加えて被告人の所在を供述させ、翌六日午前二時三〇分ころ、改造拳銃や猟銃各一丁のほか鉄製の特殊警棒などの兇器を携え、配下のうち実子分に当る工藤清二、松川幸雄、佐藤正広、牧野政義、斉藤敏典、黒沢正行、石田昭徳、藤田靖広、甲田義明、越中哲、北林豊と舎弟分の西村を加えた一二名を引き連れ、四台の自動車に分乗し、貝塚に道案内させて田中富直方に向い、その手前約二〇〇メートルの所で車を降りて密かに歩行し、同日午前三時ころ同人方勝手口前附近に到着したこと。

(五)  ところで田中富直方の構造は別紙図面<省略>記載のとおりであるが、勝手口前に着いた鎌田は斉藤、黒沢、石田、藤田、甲田、越中、北林らに裏に回れと命じて、これらが富直方の西側や北側から一斉に屋内に侵入するよう指示し、自らは改造拳銃を所持して先頭に立ち、貝塚に勝手口の戸を開けさせて、西村、工藤、佐藤正広を引き連れて勝手口から土間に乱入したところ、六畳居間に電気をつけ下着のままで寝ていた被告人と佐藤昭夫、成田茂はその物音に驚いて起き上がり、成田は佐藤正広に土間から猟銃を向けられて動くことができなかつたが、被告人は鎌田らの姿を認めて殴り込みと知り、佐藤昭夫とともにとつさに東側廊下に逃げ出し、北側八畳間の方へ向つたとき、そのあとを追い土足のまま廊下までかけ上がつた鎌田が、両手で拳銃を腰の前に構え、「撃つぞ、撃つぞ」と叫びながら腰を落すようにして被告人に迫り、被告人と鎌田は東側廊下で約四メートルを隔てて一瞬対峙したが、被告人はそのままでは撃たれると思い、北側八畳間の北西隅まで逃げ込んだ。ところで屋内は当時六畳居間のけい光灯と北側八畳間の豆電球が点灯されていたほかはすべて消灯され、六畳居間と土間は明るく、六畳居間に接する廊下部分にもガラス戸越しに弱い光が届いていたが、他の部分は六畳居間から離れるにしたがつて暗く、東側廊下の北寄り部分や北側廊下は人の判別もできない程に暗かつたところ、鎌田は北側八畳間に逃げ込んだ被告人をさらに追い、「撃つぞ」とか「出て来い」などと叫んで、東側廊下を同室の入口附近まで迫つたが、同所が暗く人の判別がつかなかつたためか、同廊下の南八畳の間に接する部分まで退いた。しかし被告人が北側八畳の間の北西隅に逃げ込んだとき、南側八畳間の床の間ガラスが破られて同所から斉藤や石田らが特殊警棒や棒杭などを持つて侵入しようとしており、北側廊下のガラス戸も黒沢らに割られ、鎌田組の者達が家屋の四方から一斉に乱入する状況にあつたところ、被告人は一緒に北側八畳間の北西隅に逃げ込んだ佐藤昭夫が短刀(刃体の長さ13.8センチメートル。当庁昭和五三年押第八号の一)を手にしているのを見て同所でこれを奪い取り、南側八畳間に移動した際、鎌田が同室の障子に接するようにして東側廊下に立ち、「殺せ、殺してしまえ」など怒鳴つて乱入してくる配下を指揮する如く叫んでいる姿を障子越しに認め、右短刀の刃を下に向けて右手に持ち、かけ寄るようにしてこれに接近し、南側八畳間の室内から廊下に立つている鎌田の胸部あたりを目がけて障子越しに突き刺し、これにより鎌田は右側胸部より右肺門部及び肝臓右葉上面に達する刺創を受け、その傷害による失血の結果、同日午前三時三〇分ころ病院に搬送される途中で死亡したこと。

(六)  なお鎌田は被告人から刺されて、直ちに屋外に出たが、その前後ころ鎌田に付き添つた工藤と佐藤正広を除く鎌田組の者一〇名が屋内に乱入し、被告人と成田及び佐藤昭夫はこれらの者から、棒杭や竹棒、角材、空気入れポンプ、特殊警棒などで乱打され、成田と佐藤昭夫はその暴行を受けている途中黒沢らに破られた北側廊下のガラス戸から外に逃げ出したが、被告人は南側八畳間で鎌田組の者に取り囲まれて制圧され、その際の各暴行により、左上眼瞼、左頭頂部に縫合を要する創傷のほか、全身打撲症の傷害を受け、全治まで約一ケ月を要したこと。

以上の事実が認められる。

三(一)  原判決は、本件を暴力団内部における喧嘩闘争の一場面と解し、被告人も鎌田の殴込みを予測して、これを受けて立つ手筈を整えていた、と判示するところ、本件の背景には組織暴力団の内部における組長の跡目争いがあり、被告人も実弟富直方に身を隠したとはいえ配下の者を呼び集め、同人方に集まつた者は被告人を含めて六名に及ぶし、同人方で被告人が北上市の暴力団佐々木組に電話して助力を求め、腰山も自己の配下を招集すべく苫小牧市に電話したほか、被告人の了承のもとに西村から拳銃を借り受けるため貝塚を同人方に赴かせたことや、富直の妻に数人分の握り飯を作らせたことも記録上認められ、これらの事実からすると、被告人も鎌田の同日の動静を小林や妻から聞いて、鎌田との紛争に対処すべく、富直方に至つてからその準備を始めたものと解される。しかしながらすでに認定のとおり、被告人は組長の銭谷淳一に命ぜられ、鎌田との紛争を回避するため、組織とは全く関係のない富直方に一晩の約束で身を隠したのであつて、被告人の身を心配した配下の五名が集まつたとはいえ、佐藤昭夫が最初から所持していた短刀一振りのほか誰れも兇器を準備していなかつたし、当夜は六畳居間に電灯をつけたまま皆下着で無警戒に就寝していたことが明らかであり、被告人において態勢が整えば、そのとき自己の事務所などしかるべき場所で鎌田を迎えうつ気持ちも、子分が集まるにしたがつて次第に醸成され始めたのではないかと思われるけれども、本件当夜鎌田が辺鄙な富直方に姿を隠している被告人を探し出して襲撃してくるとは予想せず、これを迎えうつ用意は物心両面で出来ていなかつたし、その意思もなかつたものと認められる。そうとすれば、本件の背景に法秩序を無視し不法な権力闘争を行う組織暴力団の内部抗争があるからといつて、身を隠している被告人の寝込みを襲い、深夜多数の配下を連れ、拳銃等の兇器を準備して富直方に乱入した鎌田らの行為が、被告人に対する急迫不正の侵害であることは明らかで、その襲撃とこれを受けて反撃した被告人の所為とを一括して、互に攻撃と防御をし合う暴力団員同志の反社会的な喧嘩闘争ととらえ、正当防衛の成立を否定するのは当を得ないものといわなければならない。

(二)  また原判決は、被告人は容易に逃げ出すこともできたのに鎌田の侵害が一時中断した時期に、同人に対する恨みを晴らすため攻撃的意思のもとに、無警戒に立つていた鎌田の胸部を障子越しに突き刺したのであつて、急迫不正の侵害行為に対する防衛行為とはいえないと判示するところ、鑑定人高橋建吉作成の鑑定書によれば、鎌田には右側胸部より右肺門部に達する刺創と、同じ右側胸部より肝臓右葉上面に達する刺創があり、この二つの刺創は一度右側胸部を刺したあと、兇器を完全に抜くことなく、さらに突き刺す二動作によつて生じたものと認められ、このことは被告人が鎌田に対し強い攻撃的意思を抱いていたことを推測せしめる情況証拠と解されるところ、原判決は被告人が容易に逃げることができたことや被告人の攻撃に気付かず障子の向側に立つていた鎌田の胸部目がけて短刀を突き刺した状況及び右二動作による刺殺の点をとらえ、侵害の急迫性と被告人の防衛意思を否定し、鎌田に対する恨みを晴らすための攻撃的意思による殺害行為と認定したものと解される。しかしすでに認定のとおり、鎌田は拳銃や猟銃などの兇器を携え、一二名の配下を引き連れて被告人の寝込みを襲い、下着のまま奥にある北側八畳間の方に逃げた被告人に対し、拳銃を向けて「撃つぞ、撃つぞ」と追い迫り、そのあと一旦東側廊下を南側八畳間の中央附近まで退いたとはいえ、同人は拳銃を手にして東側障子が全部閉められた南側八畳間の廊下に立ち、四方から一斉に侵入を始めた子分らに「殺ろせ、殺してしまえ」などと指揮する如く叫んでいたのであつて、結果的には六畳居間に光源がある関係で、暗い南側八畳間にいる被告人に対し、障子越に無警戒な姿をさらすような恰好とはなつたけれども、鎌田以下一三名の者が一体となつて行う本件攻撃の全体からみて、その侵害は現に継続中で、一時中断したといえないことは明らかであるし、その際被告人において容易に逃げ出して侵害を回避し得る状況にはなかつたこともすでに認定した鎌田らの殴り込みの状況からして明らかである。そしてその侵害の状況からすれば、被告人の検察官に対する昭和五一年三月二三日付供述調書にあるとおり、「五郎にピストルで射たれると思つていたので、射たれて私が死ぬよりは五郎を刺し殺してやろうと云う事だつたのです。ただあの時としては五郎に殺されると云う気持ちが第一に頭にあつた為、あとは半ば夢中で、自分が死なない為には五郎を殺すより仕方がないと云うことから、ひとりでに短刀を持つた右手が五郎に向つてしまつた」とする被告人の供述は充分に首肯できるところである。被告人はその後の検察官に対する取調べや原審及び当審公判廷において、五郎に南側八畳間に入られれば今度こそ射ち殺されると思つたので、部屋に入れまいとして五郎に向け短刀を突き出したのです。障子越しで五郎の姿は見えなかつたし、殺すとか殺さないとかということまでは考えなかつたと述べ、殺意を否定する供述をしているところ、当審における検証の結果に鎌田の創傷の部位とその内容等を合せ考えると、鎌田は東側廊下で南を向き体の右側を障子に接するようにして立つていたもので、被告人は鎌田の発する声と不明確にしろ障子に映つた人影から同人の居場所を認識のうえ、障子越しにその胸部目がけて短刀を二度突き刺したものと認められ、同人が死に至ることを認容のうえ本件所為に及んだものと解される。しかし、正当防衛行為は急迫不正の侵害を排斥するため侵害者に対して行う反撃行為であるから、その行為のうちに侵害者に向けての攻撃的意思が包摂されていても、その全状況からみて急迫な侵害に対する防衛行為と解される以上防衛意思にもとづく正当な行為と解すべきであり、防衛意思にもとづく行為であるか否かは結局、侵害の具体的状況とこれを認識したうえで反撃を行う者の意思とを客観的な資料により合理的に判断するほかないところ、本件において被告人が鎌田の右胸部を短刀で突き刺した際、被告人の生命身体に対する侵害は現に継続中であつたのであり、被告人が自己の生命を防衛する意思で鎌田の右胸部を突き刺す所為にでたことはその状況から充分に肯認できる。二動作による刺殺からその攻撃的意思を強調し、被告人が反撃に及んだ際の客観的状況を無視して、侵害の急迫性や防衛意思の存在を否定するのは相当でないといわなければならない。

(三)  原審証人佐藤正広の証言や同人の検察官に対する供述調書など原審取調べの証拠中には、拳銃や猟銃は弾丸が抜き取つてあり、鎌田は被告人を威嚇して跡目の地位から追放すれば目的を達するので殺すまでの意図があつたとは考えられない、とする部分があるところ、鎌田が被告人に対し拳銃を向け「撃つぞ、撃つぞ」と二度も迫つているのに、結局発射してない事実は、鎌田に殺意がなかつたから撃たなかつたものと解する余地がないではない。しかし佐藤正広ら鎌田の配下の者達の供述には、兇器を準備し集団で殴り込みを行つた自分らの責任を免れるため皆口裏を合せている事情も窺え、場合によつては相手方の強い抵抗もあり得ることを予測のうえ殴り込みをかけた鎌田らが拳銃や猟銃の弾を抜き取つていたというのも疑わしいし、電灯のついた居間六畳から東側廊下にかけ上がつて被告人を追つた鎌田も、暗い北側八畳間に逃げ込んだ被告人の姿の見定めができず、自ら先頭に立つて同室に踏み込む際の身の危険を感じて一旦退くことは考えられるところで、その行動から同人の殺意を否定すべきものとまでは解し難い。そして多数の配下を連れた鎌田に深夜突然襲われた被告人が、拳銃を構えた鎌田に「撃つぞ、撃つぞ」と迫られたとすれば、仮りに拳銃に弾がこめられていなかつたとしても、拳銃で射殺されると思うのは自然のことであつて、被告人と一緒に六畳居間から北側八畳間に逃げた佐藤昭夫も自分が撃たれると思つたと証言するところであり、被告人の本件所為は自己の生命に対する侵害を排除するための防衛行為としてやむを得ずになした相当な範囲の行為と解される。

(四) 以上のとおり、鎌田らの本件所為は被告人の生命に対する違法な侵害といわざるを得ないし、その急迫な侵害から自己の生命を守るためになした被告人の本件所為に正当防衛の成立を否定すべきいわれはない。原判決には影響を及ぼすことの明らかな事実誤認と、刑法三六条一項の解釈に誤りがあると認められる。論旨は理由がある。

よつてその余の控訴趣意についての判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条にしたがつて原判決を破棄し、同法四〇〇条但書によりさらに次のとおり判決する。

本件公訴事実は、

被告人は、昭和五一年三月六日午前三時ころ、秋田県山本郡山本町外岡字志戸橋境六七番地の二田中富直方において、鎌田由五郎(当時三一年)に対し、殺意をもつてその右胸部を所携の短刀(刃体の長さ約13.8センチメートル)で突き刺し、よつて同日午前三時五〇分ころ、同県能代市畠町一三番一七号所在永沢外科病院に向け同市内を搬送中の自動車内において、同人を右胸部刺創による失血死により殺害したものである。

というのであり、被告人において右記載の所為に及んだ事実は明らかであるが、すでに認定のとおり、被告人は被害者鎌田由五郎が被告人に加えたその生命の危険にも及ぶ急迫不正の侵害に対し、自己の生命を守るためやむなく同人を刺殺したものであるから、右所為は刑法三六条一項に定める正当防衛行為に該当し、結局犯罪を構成しないので、刑訴法三三六条にしたがつて被告人に対し無罪を言い渡すこととし、主文のとおり判決する。

(野口喜蔵 吉本俊雄 西村犬克)

別紙図面<省略>

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